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ら・ねーじゅ No.245
1996.4月号


雪崩に遭遇して
                                   酒井正裕 
 ここで述べるのは、先日遭遇した雪崩の体験談です。今ここに生きている喜びをかみしめながら筆を執ることが出来るのは、ひとえにこの時救出して下さった皆様方のおかげです。
 この方々には、救出して下さった後も暖かい飲み物を頂いたり、午後になって雪が落ち着いてきてから、誘発雪崩の危険に身をさらしつつ私のスキー等を掘り起こしてくれました。
 また帰りも車に乗せて頂いて東京に帰りました。
 本当に何と言ってお礼を述べていいかわかりません。この誌上を借りて重ねてお礼申し上げると共に皆さんの山行の安全を願ってその時のことを述べてみたいと思います。

 3月16日、妙高の濁俣川南俣の初滑降を目指すべく妙高国際スキー場の第3高速リフトを降りた。天候は晴れ。風は少しあるが予報通り雲が切れ始め、遠く富士山を望めた。少なくとも天気は今日一日持ちそうである。ここから三田原山までは勝手の知ったルートである。
 8時50分、平坦な斜面をトラバース気味にシールを効かせて登り始める。妙高高原駅では昨晩から数センチの降雪があったが、ここでは40センチ程となっていた。谷をトラバース気味に渡り、対岸の斜面に取り付く。正面の支稜線には小さな雪庇が張り出しているので、この雪庇を避けてやや左側を目指し、斜登行でジグザグに斜面をきって登る。この斜面で3度ばかりキックターンを繰り返すと、もう少しでこの支稜線に辿り着く。   
 そう思った時だった。足元がすくわれて滑り始めた。何が起こったのだろうと一瞬思ったが、すぐに雪崩に巻き込まれたことに気づいた。スキーで雪面を切ったために、これが切っ掛けで雪崩始めたのだ。はじめは、まだそれ程滑落のスピードは速くなく、なんとか逃れようと態勢を整えようとしたが、当然のことながら今私が乗っている雪自体が動いているのでなす術もなくもがくだけだった。
 そうこうしているうちに、滑落のスピードが徐々に増してきて、もう自身では何もできないとわかった。更に滑落のスピードは増し、最後は猛烈なスピードとなった。目の前が真っ白になり、私は死ぬ訳にはいかないと思いつつも、この時自分の命がここでなくなることを覚悟した。
 そう思った瞬間、私の体は止まった。助かったと思ったが、追い討ちをかけるように、殆ど雪に埋まった私を完全に埋めてしまわんばかりに後からデブリが覆いかぶさってきた。
 幸いにしてストックを持った左手が雪から出ていたため、顔を覆った厚さ15センチ程の雪を辛うじて取り除くことが出来た。
 しかし、体は殆ど動かない。何度か助けを呼んだが全く応答がない。なんとか私の埋もれた位置を知らせるため、幸いにして雪に埋もれなかった左手のストックをグルグル回して私の位置を知らせようとした。
 本当に情けなかった。スキー場のリフトはすぐそこで奇跡的に怪我もなかったのに、このままでは死を待つしかない。また、仮に助けだされても、時間が経過すれば低体温症が問題となることも頭に浮かんだ。
 先ほど滑落したときと違う恐怖感が私を襲った。このまま死んでしまうのだろうか。一縷の望みは、先ほど斜面を登っているときに5,6人のパーティが見えたが、このパーティか或いは私の後続で登ってくる他のパーティが私を発見してくれることだった。しかしまだ誰も助けにきてくれない。
 かれこれ10分程経過しただろうか。                       
 突然人の声がして、スコップで雪に埋まった私の体を掘り出し始めた。幸いにして私は比較的浅く埋まっていたため、掘り出す時間はそれ程かからなかった。助かったのである。
私は彼の「大丈夫か!」の声に「大丈夫です。本当に有難うございました。」と答えた。 
 また別の2人パーティが、谷の対岸から「他に雪崩に埋まった人はいないか。」と聞かれ、「私一人です。」と答えた。
掘り起こしてくれた人は、「まだ誘発雪崩の危険があるから荷物は取り敢えずここに残して、安全な場所に避難なさい。」と言われたのでそれに従った。谷から這い上がると、他の人も寄ってきた。「ご心配掛けて申し訳ありません。大丈夫です。有難うございました。」と私は言った。「失礼ですが、どなたですか。」と聞いたところ、「岳人編集部のものです。」と返答があり、私は名を名乗った。「初めまして、岳人編集部の山本です。」
なんという奇遇だろう。日頃から原稿をやり取りしている山本氏だった。まさか、こんな形での初対面となろうとは思わなかった。
また、対岸から声を掛けてくれたのはRSSAの後藤氏であり、私は気づかなかったが、先々月の頚城・駒ケ岳で会っていたのだった。                    
もう少し詳しく助けてくれた人をいうと、遭難現場に一番に駆けつけてくれて私を掘り起こしてくれた長野市在住でCANP−4というクライミングの事務所経営している渡辺氏をはじめ、南米のエンゼルフォールの登攀記録を持つ倉岡氏、岳人編集部の山本、廣川、岸川の各氏、そしてRSSAの後藤夫妻であった。また、蛇足ながら岳人編集部の山本氏は私の友人である西垣氏(府中登高会、東京都の代表として国体の山岳競技に出場したキャリアを持つ。)と同じマンションに住んでいいるというおまけまでついていた。
 単なる偶然の連続なのであろうが、それは恰も何か見えない運命の糸が絡まっていたかのように思わざるを得なかった。

 さて、ここで雪崩に遭った時のことをもう少し客観的に思い出してみなければならないと思うので、少し以下に述べてみたい。

[1]遭難時の状況
 1.雪崩に遭遇した日時   
   平成8年3月16日(土)午前9時20分頃 
 2.当時の天候
   晴れ、昨日(夜?)は雨から雪に変わった。 
 3.雪崩れた場所
   妙高国際スキー場第3高速リフト(標高1850m)から350m北西の地点。
 4.雪質 
   比較的軽い新雪が昨晩から40センチ程積もっていた。なお新雪の下は厚さ5センチ程の氷層となっており、大変雪崩の起き易い状態であった。           
 5.雪崩れた斜面について
  ア.最初は標高1950mから1750mにかけて、幅10mから20mの幅で雪崩れた。
    この雪崩により誘発雪崩を起こしたため、実際にはもっと広い範囲で雪崩れたことになる。

  イ.斜面の傾斜は約33度であり、ほぼ南向き                  
  ウ.ダケカンバの疎林
 6.雪崩に巻き込まれた時の状況      
   シールによる斜登高中(先行パーティはなく、トレースもなかった。)      

[2]救出時の状況 
 1.埋没した地点 
   標高1800m、雪崩れたデブリが谷に押し出されて長さ約100mにわたって広がったが、その中央に埋没していた。
 2.埋没時の体勢 
   足をすくわれた時と殆ど同じ状態(半身)で埋没。左手とその手に持っていたストックはかろうじて埋没しなかった。顔面も15センチ程度埋まったが、左手で雪を払って呼吸を確保した。15センチ程度とはいえ苦しかった。埋没の程度は体の部位によって異なるが、おおよそ1m弱。自力脱出不可能。尚、片方のスキーは外れなかった。 
  ザックも背負ったまま、帽子もかぶったまま、ストックも手に持ったままだった。

 3.埋没時間  
   10分程度 
 4.怪我等
   怪我はなかったがスキーを折った。(片方のみ) 
 5.その他 
   斜面上部の雪面の一部に亀裂が走っており、更なる誘発雪崩の危険性が高かった。 
  渡辺氏の話では、このため雪崩が止まった時にすぐに現場に走り寄って助ける訳にはいかなかったとのことだった。

[3]何故雪崩に遭ったか
  原因は、雪質に対する判断に尽きると思う。実際のところ、斜面を登っている最中に何度か雪崩の危険性を感じた。しかし、まだ山行の開始間際であり、加えて誰もが通過する場所であるため、危険を感じながらもこんな所で雪崩に遭うとは考えていなかった。
 当時の私の頭の中は濁俣川南俣にあり、雪の状態が悪いので濁俣川南俣を止めて三峰尾 根に変更するかどうか思案しながら登っていた。わかってはいたが、判断が甘かったのである。

[4]何故助かったか 
   一言で言えば単に運がよかったのだが、具体的には次のようなことが挙げられる。 
 1.滑落中に体が障害物に激突しなかったこと。 
   死なないばかりか怪我をしなかったのはこのことに尽きると思う。もし途中に木等の障害物に激突していれば、体はばらばらになり即死だったろう。後から考えたことであるが、雪崩で巻き込まれた場合、体そのものが雪で固定された状態であるので、単に滑り落ちた時よりも衝撃は遥かに大きいものと推察される。
 蛇足ではあるが、樹林帯の中で雪崩に遭った場合は、最悪であることもこのことから容易に想像がつく。

 2.埋没の程度が比較的浅く、左手に持っていたストックが埋まらなかったことと呼吸が確保できたこと。また新雪雪崩でなかったこと。
   左手に持っていたストックが埋まらなかったため、いち早く埋まった位置が確認され、救出が迅速に行われた。完全に埋まっていれば、谷に押し出されたデブリは広い範囲に亘っているため、掘り出された時は手遅れになっていた可能性が大きい。これは、もし表層雪崩でなく新雪雪崩であったら雪崩のスピードも格段に速く、持っていたストックだけでなく持ち物全てが飛ばされていただろう。

 3.近くに人がいたこと。またスコップがあったこと。
   近くに人がいて気づいてくれたことと、助けてもらった方々がベテランであったからこそ助かった。もしもう少し先で雪崩に遭っていたら、遭難事故が起きているなど誰も気付かなかったに違いない。
   また、埋没者を助けるにはスコップは必携である。
   なお、春の底雪崩は轟音と共に起きるが、新雪雪崩や今回遭った表層雪崩は音が聞こえない場合がある。このため、最悪の場合、身近に雪崩れがあっても気づかず、知らないうちにパーティのメンバーの一部が雪崩に巻き込まれることは十分考えられる。

 4.引き続き誘発雪崩が起きなかったこと。
   雪の状態が悪いにもかかわらず、誘発雪崩が引き続いて起きず、完全に埋まらなかったこと。また、もし引き続き誘発雪崩が起きたら、埋没していることが分かっていても助けるに助けられなかったろう。

[5]この経験を今後の山行に如何に生かすか。
  雪崩に対して如何に対処するかということを考えた場合、一つには雪崩に遭わないことを考える、もう一つは雪崩に遭い埋没した状態から如何に速く救出し、遭難者をケアするかという点に尽きると思う。
  しかし、以上のことを考えた場合、滑落時に死んでしまう可能性がかなり高いことを推察するのはそう難しいことではないだろう。従って、雪崩の規模や種類にもよるが、雪崩に遭遇した時点で、生存確率は非常に低いものとならざるを得ないことは想像に難くない。                                    
 1.如何にして雪崩に遭わないか。
   このことについては、そのような場所に立ち入らないことが一番であるが実際は非常に難しい。私もいろいろな場所で雪崩を見ているが結局のところ何処で起きても不思議はないと思っている。ただ、肝に銘じておかなければならないのは、雪崩は一般的に我々が考える以上に伸びることを認識するべきだろう。 
   雪質については、弱層テストということも巷ではいわれているが、一体この結果をどう生かすかというと大変難しい問題がある。
   既に述べたように、弱層テストは行わなかったが今回は雪崩の危険性は感じていた。
  しかし、どの程度だったら引き返すかといったことを判断するのは、現実問題として大変難しい問題であることも今回のケースで分かるだろう。
   正直なところ、この問題については画期的な打開策はないと私は考える。

 2.雪崩に遭い埋没した状態から如何に早く救出されるか。
   このことについては、月並みであるが次のようなことが考えられると思う。
 (1)山スキーの楽しみは雪に尽きるが、また危険性も雪にあると断言できる。このた
   め、雪崩れた時を想定してスコップと雪崩探索用ビーコンは個人装備とするべきで
   あろう。
    もしスコップの装備が充分でない場合は、パーティの編成順に注意し、少なくと
   も先頭と最後尾はこれらを装備したい。                    
    また、先頭が一番雪崩に遭う確率が高いこともパーティの編成順を考える時に留
   意するべきであろう。                            
    ビーコンは行動開始時に電池を新しいものに替え、行動中を通じて送信状態にし
   ておくことにも留意したい。                         
 (2)日頃からビーコンの操作方法等の救出方法を学習し慣れておく。また、救出後の
   低体温症などについても理解を深め、対処方法を学んでおく。 

 以上月並みではあるが、思いつくまま述べてみた。どれを取っても決定的な打開策はないことを感じられると思う。恐らく現実はこの程度に過ぎないだろう。
 それだけに、いつも雪崩に遭遇する危険性に晒されている私達としては、常に出来る限りの準備をしなければならないことは自明であると思う。

                                (電子化 作野) 

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