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ら・ねーじゅ No.251
1996.11月号


ゴーキョピーク・花の山旅            
 96/7/24〜8/12             

                                   手塚紀恵子 


 「モンスーンの夏にゴーキョに行くなんて、よっぽどの物好きか、花好きだ。」と言われた。「物」も「花」もそこそこ好きだが、冬と違って、夏休みは充分あるので、日程に追われないのが何よりもうれしい。

私も同行の友人も、ネパールは5回目で、なんか故郷に帰るような懐かしさである。買物を趣味とする友人は、土産物屋の人にも顔を覚えられていて、「カトマンズに住んでいるのか」なんて言われていた。

 カトマンズ市街地は、欧米系の観光客が多くて驚いた。最近、欧米辺りではネパール旅行が流行なのだろうか。私達にはどこか郷愁を誘う懐かしい雰囲気だが、欧米の人にとっては、さぞ異質な世界、魅惑の世界と映ることだろう。そんな観光客目当てのレストランも多く、肉食系が安くておいしいが、私達には、チベッタンレストランの煮込みうどんと餃子の方があっていた。日本とほとんど同じ味付けで、食べている私達もチベッタンと同じ顔をしている訳で、まさしく先祖は同じなのだと、ますます郷愁を誘われた。

 さて、カトマンズからルクラまで、まずは飛行機で挑戦する。ヒマラヤの高峰もよっく見えて、「モンスーンの最中でも見える事あるんだ。」と感激。一回目のフライトで行けちゃうなんて何て好運、と思ったとたん、突然、飛行機が旋回して、山が反対側になってしまった。スチュワーデスがおもむろにやってきて、「カトマンズに帰ります。」と一人一人に告げて回る。やっぱりそんな簡単にはいかないようだ。ルクラの飛行場が肉眼で確認できなければ、帰ってきてしまうのだそうだ。

 翌日は、ヘリコプターで再チャレンジ。こちらは、かなり確実そうだ。悪天候で飛行機が飛ばない時でも、ヘリコプターをチャーターすれば大丈夫、と聞いている。それと、飛行機と違って揺れない。(飛行機はルクラ直前で淒く揺れる。)それでは、何故最初からヘリコプターにしないのかというと、毎日は飛んでいないのである。ヘリコプターは、尾根すれすれと思えるほどの低さで飛ぶ。ネパールではとにかく山しかないので、結構な山深い所にでも人家がある。たいへんな生活なんだろうなあと思うけれど、尾根の小道添いにきれいな花が一面に咲いている様子等が見えると、何か救われたような気持ちになる。

 ルクラは懐かしい。前回は、飛行機で来たが、降りてみると滑走路がない。「私は一体どこから来たの?」と、真剣に滑走路探しをしてしまった。実は、ルクラの滑走路は、山の斜面の最大傾斜線に沿って作られた砂利道で、着陸する時は、谷側から入って登りながら滑走して止まり、90度方向を換えて、砂利道の見えない平地に、お客を降ろすのである。逆に、離陸する時は、谷に向かって真直ぐに落ちこんでいくという次第だ。ところがヘリコプターならば、真上から直接平地に着陸するので、このルクラ飛行場の不思議には遭遇しない。



 冬に来た時は、トレッカーだらけで、結構な賑わいだったルクラも、閑散としていて、トレッカー目当ての商店もほとんど開いていない。「やっぱりモンスーンの季節に来るなんて、おかしいかなあ?」と、ちょっと弱気になってしまう。

とにかく、ルクラで、キッチンボーイさん達や、ポーターさん達と合流して、いよいよトレッキング開始だ。今回はテント泊で、食事もコックさんに作ってもらう事にしたので装備もスタッフもいっぱいだ。いつもは、バッティ(泊まる所、英語で言えばロッジだがイメージはかなり違う。)泊まりで身軽にやっている私達だが、今回はシーズンオフだし標高の高い所に行くという事で、泊まる場所や食事の事が心配だった。これまでも、ジャガイモしかないバッティとか、具の無いインスタントラーメンしかないバッティとか、そんなバッティさえ開いていない所とか、いろいろだった。それと、バッティ泊まりと、テ 
ント泊まりの料金の差が1日7ドルというのも不思議だ。計算では、食料とコックさん、その他キッチンのスタッフ3人、ゾッキョ(牛とヤクの雑種)2匹を連れたポーターさん計5人の1日の経費が7ドルになるが、だったら一体1人にいくらはらっているのだろうか?



 ルクラ(2804M)から少しずつ少しずつ高度を上げながら、ゴーキョ(4791M)まで6日間、その間ナムチェ(3446M)で1日停滞して高度順化をする。天候はというと、夜はだいたいしっかりと雨が降る。それが、夜明けと共に、ピタッと止むのである。本当に毎日毎日そうなのである。そして、午前中は大体晴れている。午後になると、雨が降りたそうな空模様になり、テント場に着く2時頃になると、ポツポツと降り出してくる。しかし本格的になるのは、夜になってからである。こんな具合なので、雨具を持たないスタッフ達も、ほとんど困らない。しかも、晴れている午前中に、山だってバッチリ見えてしまうのだ。こんなのがモンスーンのトレッキングなら、冬よりいい位だ。山は見えるし、花はきれいだし、寒くないし(冬はとにかく寒かった)。冬は、荒涼として、厳しさだけを感じさせた今回の山域も、夏は、ジャガイモの紫色の花が咲き誇り、それなりに大地の実りの豊かさを感じさせてくれる。人々の暮らしぶりも、何となく伸びやかで、ほのぼのとした雰囲気がある。

 ゴーキョも、想像以上に美しい所だった。大きな3つの氷河湖の周囲は、緑の絨毯を敷き詰めたような草原で、黄色、紫、ピンク、白、水色と、色とりどりの花々が埋め尽くし、黒沢明の「夢」という映画のお花畑のシーンみたいだ。あの映画の花は造花だと私は見たが、こちら「夢のゴーキョ」は本物だ。名高いブルーポピーもたくさん咲いている。沢辺では、黄色い大きなサクラソウが、群落を作って縁取りをしている。

 ゴーキョピーク(5360M)も、山全体がお花畑で、エメラルド色の氷河湖を背景にして華やいだ装いだ。 山頂からのエベレストの展望は残念ながらなかったが、替わりにチョー・オユー(8153M)の伸びやかな山容が美しかった。

 ゴーキョには、10軒ほどの家があり、ヤクの放牧をしている。ゴーキョピーク全体に散らばっている20頭ほどのヤクを、たった一人で、口笛一つで誘導して降ろしてくる技にはほれぼれとしてしまう。バッティも、ここまで来ると、粗末さも最高レベルだ。石を積んで土を塗っただけの壁は、寄り掛ると土がついてしまうが、それよりは、寄り掛ると崩れてしまいそうで心配だ。狭い家の中で、子供たちは何処に寝るのかなあと思ったら、土間に寝ていた。それでも、とっても元気で、気後れしていないのが、ゴーキョの子供達だった。ネパールでは、どんな粗末な家にでも、大体子供がいる。どんな家でも、受け継いでいく家族がある、ということだろう。山奥の家には年寄しかいない、という日本より健全なのは、間違いないだろう。

 日程にも余裕があり、ゴーキョにはもう一日位滞在したかったが、同行者の具合が悪いので、早々に高度を下げることにした。以前、インドの山に行った時に、ただただ眠ってばかりいる人がいて、「こんな高度障害ってあるんだろうか?」と思ったが、今回の同行者が同じ症状だった。顔が極端にむくんでしまう所も、そっくりだった。高所では水分補給が必要だというが、むくんでしまうのは水分過剰なのではないだろうか、等と素朴な疑問を持ってしまった。日本に戻ってから調べてみると、むくみは、「過呼吸による肺からの水分蒸発が一因云々、脱水症状の裏返し」とあり、システムはさっぱり分からなかったが、水分補給はやっぱり必要なんだそうだ。また、眠りたがるのも高度障害とあった。あれだけ寝ていると、休養を通り越して、足腰が弱くなってしまうようで、歩く姿等、驚く程老けこんでしまって、ギョッとしたものだ。要するに、私達は、高度障害について結構何にも知らなかった訳だ。とにかく、高所にいた4,5日間、同行者は、「眠らないではいられない」と自然体で、必要最低限の時間を除いてひたすら眠っており、話相手のいない私は、ひたすら読書がはかどってしまった。



 帰路は、日程にも余裕があるので、バンボチェ(3985M)、タンボチュ(3867M)のほうに、寄り道してみることにした。エベレストの展望で有名な所だ。ゴーキョの方からパンボチェに回る道は、あまりポピュラーではない。見た感じでは険しそうだが、行けばちゃんと安全な道が作られている。これは、ネパールの山道は、単なる登山道ではなく、荷物を積んだヤク等も通る生活道だからだ。ただし、やっぱり高山であるから、急登降、トラバース、吊橋等、いくらでもあり、ヤクもそれなりのバランス能力は問われそうだ。パンボチェに近付くとアマ・ダブラム(6856M)、ローツェ(8511M)、そしてエベレストが見えてくる。冬のエベレストは、純白の周囲の峰々と違って、強風のため雪がつかず、一人黒々としているが、夏のエベレストは、雪をまとって真っ白だ。毎日のように降る雨が、エベレストでは雪になるのだろう。冬のエベレストは、「私は別格、雪も付かないほど厳しい!!」って言ってる感じで、恐れ入って眺めたものだったが、雪のついた夏のエベレストは、他の峰々と同じ雰囲気で親しみやすい。

 タンボチェも、冬は、荒涼とした感じで、僧院のお坊さん達の夜明け前のお勤めも、ご苦労さんだなあって感じで、ありがたく聴かせてもらった。ところが、夏は、一面のお花畑になっていて、お坊さん達も、どことなくくつろいだ感じだ。水汲み一つをとっても、冬はただただ気の毒に思えたが、夏は、水が容器にいっぱいになるまで、ゴローンとお花畑にひっくりかえっていればいいのだ。この僧院には、やたら日本語の上手な軽〜い感じのお坊さんがいて、今回も明るく軽く健在だった。日本にも行った事があると言っていたが、タンボチェの僧院位有名になれば、諸外国に招待される機会もあるのだろうか。尾根上にあるこの僧院は、外観も風格があり、遠方からでもよく見えて、有名になる条件をあれこれ備えている。アマ・ダブラムと僧院を一緒に写す構図は、すっかり有名だが、この構図は、僧院の裏手に回らなければ得られない。まさか、この構図の為ではないだろうが僧院は、裏手のほうが装飾的でカラフルになっている。



 ナムチェの少し上のシャンボチェ(3833M)は、ホテルエベレストビューのある所で、ヘリコプターが発着する。エーデルワイスの咲く、気持ちのよい広大な丘だ。行きに寄った時は、ヘリコプターは、まだ運航していなかったが、帰りに通った時には、運航が始まったという事で、エベレスト韓国隊の荷物をヤクの背に積む作業で賑わっていた。そろそろモンスーンも末期に入ってくるのだろう。

 ナムチェからルクラへの道も、荷を運ぶ人でえらく賑わっていた。何事かと思ったら、土曜日にナムチェで開かれるバザールに合わせて、2日がかりで商品を運んでいるとのことだった。食料やら燃料やら、あれこれ何でも運んでいる。ゴーキョとか山の奥の人達もみんなナムチェまで買い出しに来るそうである。みんなが重さに喘いでいる中で、インドからやってくるというサドゥーだけは、楽器片手に飄々としている。音楽を奏でて踊るというが本当だろうか。そんなサドゥーは見たことがない。

 トレッキングも無事終了し、ルクラで、現地スタッフのキッチンボーイさん達やポーターさん達とお別れする。2週間も一緒にいると、情が移ってなごりが惜しい。今回は、私達が女性だったせいか、キッチンボーイさん達は、3人のシェルパ族のギャルだった。女性でも「キッチンボーイ」なのは、それが役職名だからなのだろう。やっぱりギャルはどこでも同じで、やたら賑やかで、シャンプーしたり、洗濯したり、鏡をのぞいたりと、あれこれ身だしなみに余念がない。私達は、15日間シャンプーしなかったが、彼女達は、見かけと違って(土まみれの服とか着ていて、結構構わないのかなって感じなのに)、すごっく冷たーい水でも、3日に1度はシャンプーしていた。ただし、シャンプーも洗濯石鹸でするのには、驚いた。洗った髪をとかす時に、長い髪がキシキシいって痛そうだ。もっと驚いた事には、食器も洗濯石鹸で洗っていた。日本人があれこれ過剰に使い分けすぎるのだろうが、まさか石鹸で食器を洗っているとは、思わなかった。いずれにしても、鍋の底まで、食事の度毎に、煤一つないように磨きあげるキッチンの仕事には、敬服してしまう。家事は手抜きを旨とする私としては、彼女達に限らず、ネパールの人達が、必要最低限の物を大切にていねいに使用している様には、学ばされる。

 帰りのヘリコプターも順調に飛んで、静寂のトレッキングから一気に喧騒のカトマンドゥに引き戻されてしまう。モンスーンの時期らしく白い雲がわきあがる中、緑の段々畑になっている山から、青く霞む山、そして白い氷雪の山へと、少しづつ山々が深まり高まっていく様を眺めるのは、感慨深く、トレッキングを締めくくるにふさわしい。

 カトマンドゥに戻り、観光のついでに、キッチンボーイの一人の妹さんが、レストランをやっているというので、おじゃました。狭さといい、雰囲気といい、屋台のようなものだと思えば、結構似ているかもしれない。ここに集まる人達は、皆、同じ村出身のシェルパ族の人だという事で、「県人会」のような感じなのかも。たまたま、エベレストに10回登頂したという人がいて、昼間っから酒を飲んでいた。この方、この功績により、シェルパとしては、初めて政府から年金がもらえるようになったとか。諸外国の登頂者の影にこういう鉄人が存在する遠征隊の仕組みって、何とも不思議なものだ。



以前、エベレストB.C.に行く途中に見た、エベレストで死んだシェルパの為のケルンの乱立する丘を思い出し、10回登頂しても無事でいるなんて凄いなと、サインしてもらったり、握手してもらったりして、場を盛り上げてしまった。「私のサインは1000ルピー」等と言いながらも、万更でもない表情だった。日本だったら、1回登っただけでもずっと有名人で、テレビなんかに出続けるのに、ネパールでは、10回登っても、真っ昼間から場末の屋台で酒なんか飲んでいる。何か世の無常を感じてしまうが、生きているフィールドが違うのだから、比べる類のものではないのかも。1ヶ月5000ルピーという年金も、充分なのか、たいした事ないのか、分からない。

 このようにして、ゆったりとした時の流れの中で、ネパールでのトレッキングも無事終了した。出かける前は、オリンピックの成り行きが気になって仕方がなかったが、カトマンドゥの人も含めて、ネパールの人達は、全然気にもかけていなかった。ルクラから先、ラジカセの音すら聞こえず、情報の洪水から開放されて、耳も目もだいぶ浄化されたかもしれない。美しく調和の取れた自然と、素朴な人々の暮らしぶりに触れていると、こんなのが本来の人間の生き方なんだろうな、なんて思えてきて、妙に素直に過ごせたりする。出会うトレッカーも稀で、静かで豊かな、望み得る最高のトレッキングだったと思う。花好きにも物好きにも、そして山好きにも、充分満足できる旅だった。

                                 (電子化 作野) 


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