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ら・ねーじゅ No.252
1997.1月号


奥多摩・御前山にて   96/11          
                          酒井 正裕 


 11月の或る日、代休をもらった。ここ3週間ほど休日返上で働いてきたため 
だった。別に休みたいという希望はなく、また、休むのであれば、できれば余り 
に余っている年休で休みたかった。しかし、自身の希望は全く受け入れられず、 
唯一希望が叶えられたのは、連続した休暇だった。              

 しかし、取ってみて思ったのは、平日に一緒に山へ登ってくれる人はいないし、
かといって、4日間も家でゴロゴロするのはいやだった。同時に、「もし、山を 
続けなければ、休みはひねもすぶらぶらして、将来は周りから粗大ゴミ扱いを受 
けるのではないか」という変な考えが、ふと頭をよぎった。          
 そこで、なんとか1泊2日で近くの山へ出掛けることを考えた。しかし、これ 
も休暇日前日に降って湧いたような予算の仕事が理由で、帰宅は日めくりとなり、
この計画もご破算となってしまった。結局の処、準備が楽な日帰りとし、行った 
ことのない奥多摩・御前山へ行くことにした。                

 連休2日目の朝、奥多摩駅から留浦行のバスに乗る。平日だから登山者なぞい 
ないだろうと思っていたら、意に反してバスの中は立たなければならないほどの 
人である。しかも、その殆どは中高年登山者である。叔母様・叔父様方の会話が、
聞きたくなくても耳に入ってくる。中身は全くたわいない。年がいってから山を 
始め、現在山狂いのまっ最中といったところか。恐らく定年まで一生懸命働いて 
きたことと思うが、今は持て余している暇とエネルギーを全て山につぎ込めると 
いう、素晴らしい環境が整っているらしい。                 

 私は、このような中高年登山者を見るといつも気分が悪くなる。若いときから 
山に登っている中高年登山者はそういうことはないと思うが、年をとって山を始 
めると、登頂への執着心が異常なまでに高く、反面、ルートファインディングや 
判断力を含めた登山技術、そして体力が全くないといってよい。加えて悪いこと 
に、リーダーの言うことには全く耳を貸さない。全て自己中心的である。私は、 
中高年登山者の全てがそうだとは言わないが、今までの経験からそのような人が 
多いと言わざるを得ない。特に、技術や経験もないのにリーダーの指示に従わな 
いのは言語道断である。それだったら一緒に登らなければよいし、そういう人を 
リーダーにしなければよい。                        
 話は、横道にそれてしまった。ここでは、このような小言を話す積りはなかっ 
たのだ。                                 


 さて、小河内ダムのある奥多摩湖のバス停で降りた私は、ダムを渡り、直接御 
前山に続く尾根に取り付いた。最初は、アキレス腱を伸ばすのに十分過ぎるくら 
いの急坂を暫く登る。その後は雑木の緩い尾根が続き、快適に高度を上げる。冬 
枯れの道は明るく大変気分がよい。惣岳直下の急坂を登りきると、左手に吊り尾 
根状の尾根が見え、その先が御前山だった。ダムから2時間20分程だった。運 
動不足解消を目的にしていたので、丁度よいアルバイトだった。頂上は落ち葉が 
少なく、湿った地面が出ていたので、下の避難小屋で休む。最近建てられたばか 
りの気持ちのよい小屋だ。ここで、紫煙をくゆらせながらゆっくりする。奥多摩 
の雰囲気を実感できる一時だった。ここまでは、静かで予定通り気儘な山行だっ 
た。                                   

 しかし、この後この山行は一変するのである。私は、ここから栃寄集落へ向け 
て降りることとし、小屋脇から下降し始めた。すると、暫くで周囲の木々が所々 
伐採され、「体験の森・・・」、「・・・広場」といった看板やベンチがやたら 
目に付くようになった。小径もいくつもできており、それらのために山は無残な 
くらい伐採されている状況であることを知った。それを決定づけたのは、林道が 
1100M付近まで延び、今も土木作業が続けられていることだった。特に、目 
を覆ったのは、栃寄沢の大滝上流にあったワサビ田がコンクリートで完全に固め 
られていることだった。                          
 「都民の森」と銘打っておきながら、これでは森を破壊しているだけである。 
事業主体の行政は一体何を考えているのだろう。全く馬鹿げている。この事業の 
目的の一つに山村振興もあるのかもしれないが、もっと有意義な金の使い方がな 
いのだろうか。                              

 ところで、私は日頃の感想として、自然への接し方の知らない人が増えたので 
はないかと思う。今の「アウト・ドア」ブームはその典型であろう。そこには、 
「アウト・ドア」とは言ったものの、所詮は都会の延長上の生活を持ち込んだだ 
けである。                                
 オートキャンプに代表されるように便利で施設が整っているというようなとこ 
ろでなければ人気がないというだけでなく、キャンプ場に来て、ラジオは付けっ 
放し、夜は他人の迷惑も顧みず花火遊びに興じるといった、本当に貧しい遊び方 
しかできないということが一例であると思う。そこには、積極的に自然に接しよ 
うとする考え方が伝わってこない。当然、自然への最も大事な「畏敬の心」など 
生まれてくる風潮など在る訳がない。                    
 この多くの貴重な樹木を犠牲にした「都民の森」だって同じことだろう。いく 
ら立派な施設を作ったからといって、これでは都民はまともな森に接することは 
できないし、どんなに贔屓目にみても、自然との付き合い方を知らない「アウト・
ドア人間」を作り出すのが精一杯であろう。そこには、当然ながら自然に対する 
「思い上がり」ができても、「畏敬の心」はできないであろう。        

 後に、つらつら思ったことは、「今風の中高年登山者」と、この「都民の森」 
は、「自然への畏敬の心の欠如」という点で共通しているように思えてならない。
自然に対しての畏れ敬う心があれば、このような伐採地を造りだす事業計画は存 
在しなかっただろうし、中高年登山者が、例えば自分の力量を顧みず異常なまで 
に登頂へ執着することなど、在り得ないからである。             
 世の中、自然に接することを知らない人間が、いつの間にか増え過ぎたのかも 
知れない。                                


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