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ら・ねーじゅ No.254
1997.3月号


随筆  笈ケ岳と私                  
                          1997年2月28日 
                                酒井正裕 


 この正月に久しぶりにゆっくり帰省した折り、本屋を覗き込んだら「とやま山 
紀行」という本が出版されていることを知った。その本を紐解くと、笈ケ岳の登 
頂記録があった。どうやら、執筆者はこの山にかなり執着しているようである。 
私は、その記録の中に私の名前があるかもしれないと淡い期待を持って探してみ 
たが、やっぱりというか、当然のことながら名前はなかった。         
 
 さて、笈ケ岳といっても知る人は少ないと思われるので、少しこの山の紹介を 
してみたい。この山は、昨年、鈴木鉄也氏がブナオ峠からこの山を経由して白山 
スーパー林道の起点である馬狩までスキーで縦走したことから、我が会では多少 
なりとも知られたかと思うが、地理的に、富山、石川、岐阜県境に位置し、山も 
深く、登山道もないことから、一般登山者には登ることは不可能である。また、 
この山に突き上げている渓谷としては境川などがあり、とりわけその支流のオバ 
タキ谷は本邦屈指の険谷として一部の沢屋に知られている。          
 
 さらに付け加えると、深田久弥が日本百名山に入れたかった山でもあるが、残 
念ながら断腸の思いで落してしまった山でもある。              
 
 このように、一般的には余り知られていない山であるが、それだけに知る人ぞ 
知る名山として、また、その端麗な山姿から、一部の登山者の憧憬の的となてい 
る。                                   
 
 そして、実のところ私もこの山に想いを馳せた一人であった。        
 
 振り返ってみると、大学の1、2年の頃は、毛勝山、南会津の丸山岳、そして 
この山に憧れ、毛勝山と丸山岳は登ったものの、この笈ケ岳は雪山の技術がなけ 
ればならず、体力に自信がないことから、山岳会に入会して登ることなど夢にも 
思わなかった我が身にとって、遥かに遠い存在であった。           
 
 そのため、私は大倉山、大平等の富山県内の中級山岳を登り、独学で自分なり 
の雪山技術を身につけた。                         
 
 そして、昭和54年4月上旬、私は単身、細尾峠から猿ケ岳、ブナオ峠、奈良 
岳、大笠岳を経て、笈ケ岳に登頂した後、石川県の中宮へ下山した。当時の私に 
とって、将に夢の稜線40kmの縦走であり、後に私を沢登りの虜にさせた利根 
川本谷の遡行や剱岳西仙人谷の滑降などとともに、最も思い出に残るものの一つ 
となった。                                
 
 また、今から思えば、これほど純粋に一つの山を追い求めたことはなかったし、
これからもないものと思う。                        
 
 さて、普通ならば、笈ケ岳との関わりはこれで終わりとなるところであるが、 
私が東京で沢登りを覚えて富山に帰った3年目、ジャンダルム山岳会に在籍した 
昭和60年夏に2度目の機会が訪れた。それは、当時、良きパートナーであった 
関口(現姓 星野)氏がいたからこそ登ろうと思ったのだが、それでも、このルー
トを決めたときから緊張感の途切れる日はなかった。山行は、好天に恵まれたも 
のの、稜線の猛烈な密薮、いつもながらの私の弱気の虫、そして時間的な制約か 
ら、残念なことに小笈までで引き返したが、無雪期の山頂にかなり近い地点まで 
たどり着き、計画のほとんどを達成できた。                 
 
 この後、笈ケ岳に登る機会はなく、あれから12年近くの歳月が流れ、久しく 
この山を眺めることさえもない。知る人は殆どいないが、実は、富山県中央部の 
小杉駅付近からもこの山や大笠岳を見ることは可能であり、帰省時に運が良けれ 
ばその輪郭程度であれば眺めることはできるが、できることであれば、山スキー 
で飛騨の山にでも登り、気が済むまで笈ケ岳を眺めてみたいと思う。きっと、今 
までの懐かしい思い出に浸りながらも、私にとって未知の山域である白山とその 
北方山域の岐阜県側の山スキールートを探すことにより、次の山のステップを見 
い出すことができるだろうと思っている。                  

【概念図】



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