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槍沢の滑降(標高2600m辺りより)

2000年5月8日

メンバー:梅原(単独)

天候:雨のち吹雪

連休の最終日に上高地に入り、その翌日に槍沢の滑降を目論んだ。連休のこの周辺は驚異的に混雑Wうんざりした経験があるので、敢えてこの日程にした。天候は運次第である。

5月7日の午後、乗客は数人のみのバスで上高地へ。天気は上々。沢渡辺りは桃や桜の見頃である。そして山肌の新緑の中に山桜があちらこちらに、淡いピンクの彩りを添えていた。

3時に上高地に到着。と同時に俄か雨であった。ホテル五千尺の庇を借りて雨宿りをしながら、予報通りの下り坂の天候に、心を曇らせるのだった。

その晩は徳沢園に泊った。特に『氷壁』のファンという訳ではない。井上靖さえも、渡辺淳一風ちまちました恋愛小説を書くのだ。あの種の因循な恋愛が美しいとは思えない。それよりも何もできなかった連休の腹いせに。幾分豪華に過ごしたかったからである。山菜の天麩羅やワインはとても美味しかった。従業員も穏やかな性格の様子である。どっしりした木造とマントルピースの落ち着いた雰囲気。非常にくつろげ満足した。今度は情婦と一緒に訪れたい。渡辺淳一風に。しかし翌日の長丁場を考慮したら、槍沢ロッジまで入っておくべきだった。甘く見ていた。

翌朝は強い雨音で目覚めた。小降りになる7時まで出発を逡巡した。天気は回復に向かっているはずだが…。急いで歩こう。明日は業者とのアポイントがあるのだ。

横尾から雪上となる。例年になく残雪が多いらしく、ぐずついた雪に時折足をとられ苦労した。それでも9時に槍沢ロッジ到着はまだ脈がある。雪は豊富だから、ここまで快調に滑り降りられるはずである。懸念されるのは上部を覆う厚い雲である。小屋の青年が顔を出し、「回復には向かっているようだけど上のほうはね…」と呟いた。

細引きでスキーを引っ張ってキックステップで行く。大曲辺りでシール装着。傾斜と積雪が次第に増す。足元の腐った雪が崩れやすく行程ははかどらない。11時30分。高度計で標高二千六百。雨が吹雪に代わっていた。濃霧の中でアイゼンを装着して「稜線まで一気に行くぞ!」と、一歩踏み出した途端、地吹雪の突風に叩かれた途端に意気地無しになり、下山の断を下した。

重い雪に息切れする滑降であった。上部が霧に包まれた岸壁の狭間を、ただ一人滑って行く心細さが甘美とも感じられる。大曲付近は緩い傾斜と重い雪。ストックで漕ぐ。右手にデブリがいくつかある。そして横尾尾根の上部では雪崩が頻発していた。小規模ではあるが、谷に響く大きな音と雪煙にドキッとする。

まともな滑降は槍沢ロッジ直下までだった。そこから下は樹木が密になって、スキーは無用の長物であった。二ノ俣の吊り橋で観念してスキーをザックに固定した。滑降もシール歩行もロープでスキーを引っ張ることも効率が悪い。木の根や沢の横断など頻繁である。

一ノ俣が1時20分。昨日で連休のバスダイヤは終了するので、上高地を4時半のバスに乗りたい。腐って不安定な残雪に苦闘した。ザックに固定したスキーが後頭部にガチガチ当たる。片足を付け根まで雪を踏み抜いてつんのめった時は、後頭部をしたたかに打たれ、気が遠くなった。

明神池からはジョグ。今頃になって春の柔らかい日差し。もう半日回復が早ければ…。

4時5分にバスターミナルに汗だくで到着。大急ぎでスキーをしまい見繕いをしtr、ともかくビールだけは買い込みバスに飛び乗った。二ノ俣からは本当に長かった。これほど疲労困憊したのは久しぶりだ。スキーを担いだ長い道のりは、左肩に痺れるような痛みを与えていた(後日五十肩の宣告を受けた)。後頭部のタンコブも疼いた。

稜線まで到達できなかった落胆と二ノ俣からの長くて辛かった道のり。それにもかかわらず、槍沢滑降は途中からとはいえ楽しかったので、今回のスキーは成功であった。と、敢えて言ってしまおう。それにしても、徳沢からの日帰りというのはあまりにも甘すぎたな。

次のシーズン。2001年での再チャレンジはどうだったか?次号をご期待ください。

(タイム)
5月8日 徳沢園7:00→横尾山荘通過7:40→一ノ俣通過8:20→8:55槍沢ロッジ9:00→赤沢岩小屋通過9:30→モレーンの下・標高約2600m(推定)で断念11:30→赤沢岩小屋通過12:35→槍沢ロッジ直下通過12:55→13:15一ノ俣13:20→横尾山荘通過14:10→14:50徳沢園15:00→明神館通過15:30→16:05上高地バスターミナル

(梅原 記)


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