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湯の丸山そして地震


2010年3月11日

メンバー:田中(秀)

 3月定例山行は12日(土)に飯縄山、翌13日が妙高・三田原山の予定であった。当日は早朝出発のため前日に現地入りしておこうと、足慣らしと時間調整を兼ね途中にある湯の丸スキー場に立ち寄った。11日の天候は雪時々晴、ガスが切れれば視界は数キロ、風は弱かった。

 車を地蔵峠の駐車場に止め着替と昼食を済ます。平日のためか閑散としているゲレンデを数本滑った後に湯の丸山に向かう。12:50、標高約1840mのリフトトップを出発、約700m歩き鹿沢温泉に降りるハイキングコースとの分岐点に至る。ここから登りが始まるが、先行トレースは明確に残っていた。ルートはほぼ夏道に沿って付いているのだが、そこに有刺鉄線の柵を巡らされているのが気になる。この周辺にはレンゲツツジ群落があり、その保護のためなのか、牧場利用していた名残なのか定かでないが、積雪量が少ないためブッシュとこの柵の露頭を避けるため下りのコースは制約されそうである。

 13:30、リフトトップから40分で湯の丸山2101mに到着、山頂付近は風の影響か石が露出していた。風を避けるため一段下がって滑降準備をしている間にスノーシューのカップルが来た。彼等は西の烏帽子岳まで足を伸ばしての帰りとの由、更にゲレンデ側からも7〜8人のグループがスキーで登ってきた。この山域の交通利便の良さが窺える。標高差250mの滑降はシュカブラ、吹き溜まり、ブッシュとあまり快適ではなく5分程で終わってしまった。湯の丸ゲレンデではなく鹿沢温泉に降りるルートもあると聞くが、雪が多い時期に限られそうである。往路を戻りリフトトップ帰着13:50。

 未だ陽も高いので地蔵峠を挟んだ篭ノ登山の山腹にあるゲレンデで遊ぶこととする。折良く少々激しい雪となり、30分で10センチ程積もった。未圧雪バーンで練習が出来るとは想定外と喜び、5〜6本滑り汗ばんできた頃、更に想定外の事態が発生した。乗っていたリフトが降車場まであと20m程の所で突然停止してしまった。風は弱く、リフト利用のお客さんも少ないので乗降時のトラブルも無い筈と思われたが運転はなかなか再開されない。待つこと5分も経ったろうか、“強い地震が発生したため施設の安全確認中”との場内アナウンスが流れた。リフト運転中止の理由を漸く知ったのだが、振り子状態のチェアーリフトに座る小生は全く地震の揺れを感じなかったのである。時刻は午後2時50分過ぎ、スノーモービルに乗った係員、降車場のスタッフが巡回に来た後も運転はなかなか再開されない。地震の強さを全く知らない小生は、先程まで汗ばんでいた身体が冷え切って行く苦痛から逃れたい一心であったが、地上までの高さ5〜6mを飛び降りる自信もない。宙づり状態が更に10分近くも続いた後、漸く徐行運転が始まった。

 一旦レストハウスで休憩し今後の行動を考える。携帯電話は既に規制され不通状態、テレビは津波警報と東京近郊での被害状況を繰り返し報じるばかりである。駐車場に居た県の道路パトロールから関東方面に戻る事の困難さを聞き、当初予定の黒姫山麓のペンションに向かうことにした。途中、自宅・家人の無事は公衆電話で確認した。非常時は公衆電と言われていたが、それが何処にあるかを気にしたこともなかった。実際に探してみると、ほとんどのコンビニエンス・ストアの軒先に設置されていた。地域が長野の山間部ということもあったので公衆電話は行列することもなく使用できた。

ペンションに到着して間もなく、例会リーダーから山行中止の電話が入った。残念だが当然の措置である。テレビのニュースは都心の帰宅難民と各地の被害状況を伝えていたが、全貌を想像できるものではなかった。ひとまず就寝したのであるが…。

未明の4時頃、強烈な揺れに起こされた。県北部の栄村で震度6強、野沢温泉スキー場ではゴンドラがロープから外れたという県北部を震源とするM6.7の地震である。町内の防災放送は“落ち着いて行動するように”と呼び掛けるので逆に不安が募る。しかし、この辺りの地理も不案内であり大人しくしている他なく、更に数回の余震に怯え朝を迎えた。昨日、そして今朝と大惨事が起こったとは思えない眩しいばかりの雪国の朝である。こんな事態の時に絶好の山スキー日和とは何と皮肉なことか。

“道中では何が起きるか分からないから”とペンションの女主人が用意してくれたおにぎり弁当を戴き帰路につく。上信越道〜長野道〜中央道〜圏央道と繋いで自宅に帰る道路は予想外に順調であったが、東北の被災地に向かうであろう消防、警察、自衛隊の夥しい車列に事態の深刻さが重くのし掛かってくる。夜を徹して走って来ている九州や四国ナンバーの車両もあった。彼等が二次災害に遭わないように、そして被災者が一人でも多く救われますように只々祈るばかりであった。



田中(秀) 記


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