Last Update : 2014/08/31 戻る

京都山崎・天王山

平成26年7月25日(快晴) 

メンバー:梅原秀一

このところ土休日を公務で奪われることが多く腹立たしいので、平日に遊びに行くことにした。折しもNHK大河ドラマは山崎の合戦を間近にしていたので、合戦の重要拠点とされた天王山と、以前から興味を持っていたアサヒビール大山崎山荘美術館を訪れることにした。京都を午前9時下車。東海道線を30分程で山崎駅に到着。既に照りつける陽は、素肌に痛いと感じるくらい猛々しい。

 JR線路の北側は樹木の生い茂る小山となっていて、その頂上が天王山である。「山崎」といえばサントリー高級ウィスキーの銘柄で、サントリーの旗艦といえるウィスキー工場もあるが、今回は、宝積寺下にあるアサヒビールが経営する美術館をまず訪れた。

 踏切から急坂を15分程登ると美術館の正門。岩盤をくり抜いたような正門を抜けると、両側に落葉樹を配した小道が湾曲して登り、本邸に導かれる。由比ヶ浜の丘の中腹にある、旧前田侯爵別邸であった鎌倉文学館と似た雰囲気だ。実業家加賀正太郎氏の邸宅を、氏と親交のあったアサヒビール創業者山本為三郎氏が美術館として再生させたとのこと。建物が荘厳で、淀川を見下ろすテラスが実に良い。新設された展示棟でモネの睡蓮等の名画も楽しめる。ただ、この安藤忠雄氏の部分だけ浮いているような気がした。



 美術館を後にして、宝積寺の立派な五重塔を見学してから、寺の脇から始まるハイキング・コースを登った。天王山中腹に山崎の合戦の史蹟があり、そこから京都方面の眺望は、何故この地が戦場になったかを納得させてくれた。桂川・宇治川・木津川の三川が山崎で合流し淀川となるのだが、当時は広大な湿地帯もあり、人馬が通行できるエリアはもっと狭かった。光秀はここで秀吉の大軍を阻止しようとした。寧ろ楠正成の一旦京都を捨てる作戦の方を取るべきで、無傷で占拠出来た安土城を拠点にして、兵力を分散させない方が得策だったのではないか。

 などと思いを巡らすも、樹林に覆われているとはいえ耐え難い高温多湿である。汗でズッシリ重くなったハンドタオルを絞り、発汗を抑えるためペースを更に遅くし森の中をゆるゆると登れば、幕末の蛤御門の変の真木和泉等「十七烈士の墓」。久留米の神官・真木和泉は狂信的攘夷論者で、長州藩以外の兵士で一隊を率いて参戦したが敗戦。長州藩本体を退却させるため、この地に留まって奮戦したのち自刃した。この十七人の中に長州人は皆無。薩摩と異なり長州には武勇談は乏しい。

更にゆるゆる登って天王山山頂に到着。標高270m。全く展望のない、蝉の声が賑やかなことのみが印象に残った山頂だった。秀吉は合戦後にこの頂に新たに築城したが、既に山城は時代遅れになっていたからか、間もなく廃城とされた。

下山はやや東寄りにある山崎聖天に寄り(別名・観音寺。山崎では定番観光スポットということだが、特にコメントしない)、山崎駅に戻った。JRの他に、やや離れて阪急・大山崎駅もあるにも係わらず店舗は非常に少なく、廃れゆく街といえそうだ。食事時ですきっ腹であったのに、ガイドブックに載っていた二つの飲食店は何れも休業(廃業かもしれない)していた。ともかく、阪急・大山崎から京都の中心地・河原町へ向かった。

河原町で昼食とビールで一息入れた。さて、午後まだたっぷりある時間をどう過ごそう?訪れたいスポットは幾らでもあるけれど、京都の酷暑は予想以上であった。ズボンに突っ込んだ財布が汗で濡れて合成皮革の色が褪せているし、中の札も濡れてしまった。結局、賀茂川を渡って六波羅蜜寺で空也の像を見てから、知恩院下の白川の河畔まで暑さに苛まれてトボトボ歩いた。

記:梅原

 


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