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京都・真冬の庭と仏像巡り

平成29年1月24日 曇時々雪

参加者 梅原

 大政奉還から150年を記念して、明治維新に関わった寺社を中心に、通常は非公開の仏像や庭園等が、冬季限定で公開されている。山陰や滋賀県北部が大雪に見舞われ、山陰・北陸線の一部が運休になるなか、私の乗車したのぞみは、京都到着20分遅れであった。時折雪が降る底冷えの京都は訪れる人も少なく、静かな旅が出来た。

 京都市内の交通は電車と徒歩を主として、決してバスは使わない。駅前のバス案内所も運転手も底意地が悪く、特に江戸者には恨み骨髄に染み込んでいる。意図して遠回りの経路を教えてくれたりする。

 京都駅から徒歩で鴨川を七条大橋で渡り、七卿落ち所縁の門跡寺院・妙法院を訪れた。ガイドの説明を聞きながら暖房が全くない庫裡や庭園を見て回るも、雪のちらつく寒さが身に染みた。

 明治維新とは無関係だが、通り道なので六道珍皇寺に。小野篁(タカムラ)が地獄に通った井戸がある寺。篁は平安時代の学者・歌人。「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り船」が百人一首に選ばれている。篁は閻魔大王の代役を務めたとも言われ、源氏物語というスキャンダラスな小説を執筆して地獄に落ちてしまった式部を救い出すため、篁の墓が式部の墓の隣に移されている。管理されていないので拝観料は不要。荒れている境内が、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。

 次は栄西が開山した臨済宗建仁寺の末寺・久昌院の庭園。長篠の合戦で活躍した徳川方武将・奥平信昌創建。建仁寺法堂を背景にした庭が壮麗だ。坐して瞑想に浸りたいところだが、この寒さに耐えるには修業が未だ足りない。暖かい季節にも公開して欲しい。

 建仁寺塔頭・両足院を訪れてから、通年公開の建仁寺本堂へ。最も好きな寺院で今回で5度目。俵屋宗達の国宝「風神・雷神」さえも、ガラス越しだが撮影OKという寛容さ。枯山水が素晴らしく、三年前までは歩みを緩めさえしなかったが、この庭で開眼した(様な気がする)。爺むさくなったものだ。年齢相応かもしれないけれど。

 昼食は四条大橋を渡った、河畔の眺めの良い和食店にした。鴨川と対岸の南座など眺めながら、京都でも美味しいとは限らない湯豆腐で熱燗を。雪がまた降り出した。

 再び鴨川を渡って、幕府の庇護を受けていた知恩院に。将軍との謁見の間・狩野派の襖絵。三百年も経って随分色褪せていることだろう。色彩の暗さが気になった。

 知恩院から坂を下って華頂短大を過ぎると白川の古門前橋。その数十mほど上流に、幅60p程の行者橋と呼ばれている石橋がある。この付近の白川沿いの柳並木は、京都市街で一番好きなスポット。穏やかな気持ちにさせてくれる風景だ。

 知恩院から金戒光明寺へ2qの道のり。その金戒光明寺は、浄土宗の大本山であり、幕末に会津藩士が京都守護職として駐屯した寺院。獅子の上に坐している文殊菩薩像が素晴らしかったが、丘の上にある会津藩士の墓地に、大きな悲哀を感じた。市中取締りや蛤御門と鳥羽伏見の戦いのあった数年間で、352基の墓が並ぶことになった。

 靖国神社は太平洋戦争の戦死者が合祀されていると思っている人が多いが大間違いである。大村益次郎発案で、戊辰戦争からの戦死者が対象。但し官軍のみで、会津藩士は勿論、勅命受けて戦った第二次長州征伐の幕軍の戦死者も外されている。勿論、西郷どんも対象外である。会津藩士や新撰組は、長州藩士等が京の都を火の海にしようとしたのを防いだにもかかわらず、賊徒の汚名を着せられた。挙句は恭順を認めず、陸奥の果てまで砲火で追いつめられた。

 このお寺で1時間以上過ごし午後4時を過ぎた。夕暮を間近にした薄暗い空から、牡丹雪が激しく舞い降り始めた。眼下に重く沈んでいる京都市街を目指して、墓地の階段を下った。

コース・タイム
京都駅9:50→七条大橋10:05→10:15妙法院10:35→11:00六道珍皇寺11:10→ 11:20建仁寺末寺・久昌院11:30→11:30建仁寺塔頭・両足院11:40→11:40建仁寺 12:10→四条大橋12:15→(昼食12:15〜13:10)→13:30知恩院14:20→白河・古門前橋 14:30→14:50金戒光明寺16:05→地下鉄烏丸線・丸太町駅16:35

金戒光明寺墓地より京都市街を望む

記:梅原

 


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